今、教師に求められている「子ども一人一人の寸法に合う教材を」「指導の基本は、人皆に美しき種子あり」「教師による4つの言語活動」 山浦 秀男
新学期は、子どもにとってうれしい入学・進級の時であり、教師にとっては異動があり新任教師の誕生する時でもあります。子どもたちは、今年はどんな先生が担任になるか期待で胸を膨らませています。とりわけ新しくみえる先生への期待には限りなく大きなものがあります。
今、教師に強く求められている「子ども一人一人の寸法に合う教材を」「指導の基本は、人皆に美しき種子あり」「教師による4つの言語活動」について考えてみたいと思います。
子ども一人一人の寸法に合う教材を
学習指導要領が改訂され度に、教育の質的転換が叫ばれているが、このことは教師中心主義の伝達の教育を排除し子ども中心の教育にしなければならないということです。
授業における教師の役割は、もはや教える教師ではなく、学習者が対象に働きかけるときの援助者へと変容しなければなりません。援助者としての教師にはGuide(案内者)としての役割、Prompter(役者が台詞を忘れたときに柱の陰で小さな声で教える人)としての役割、そして、時には子どもの行動をじっと見ているSpcctator(観客)としての役割も要求される。
このような教師の行う教育は、子どもが自ら調べていく過程を大切にし、直接経験に訴える能動的な教育であり、教えられた知識をノートに書き写すのではなく、体がノートであるというような教育です。このように、教授・教授者中心の教育から、学習・学習者中心の教育の授業がなされるようになったとき教育の質的転換だと言えます。
新しい教育課程は、個性重視という人間尊重の精神が根底になっています。このことは、これまで教育課程が改訂される度に言われてきたことではありますが、子どもの一人一人に合うような教育がなされるようになったとは言えません。
子ども一人一人は個人差をもつ存在であって、学習の速さが違うばかりではなく認知のしかた、ものの考え方、経験、興味、関心、価値観の違いなど全く十人十色で同じ子どもはいません。個人差のある子どもに、同じ教材を同じ目標で、しかも同じ方法で教えるという選択の自由の無い画一的な教育は、学習に対する意欲が失われ、興味・関心が薄れるばかりではなく個性を重視するという人間尊重の精神に反することにはならないでしょうか。
私たちは、洋服を購入する場合には自分の体に合うものを選び、靴を買う時は足に合う靴を購入します。学校における教育の主体が子どもであれば、自分に合うような教材が選べるような配慮がなされなくてはなりません。もともと学校とは子ども一人一人に合った教材を用意しておくところです。
指導の基本「人皆に美しき種子あり」
暦にはたいてい大安、友引、仏滅などが記入されています。人々の生活に生かされている証拠です。大安は吉日。仏滅は凶の日とされている故に、うっかり仏滅の日に見舞いや祝い事を予定すると、なんと非常識だと陰口されることになります。最近の若い人はあまり気にしなくなってはいます、それでも大安と仏滅は生活の中に生きています。
ところで、この大安、仏滅の日はどのようにして決められているのか調べてみて驚きました。なんと旧暦の月と日を加えて6で割り、残りの数で決められるというのです。割り切れると大安、1残ると赤口、2残ると先勝、3残ると友引、4残ると先負、5残ると仏滅となっています。
今日が旧暦で4月1日(4+1)ならば5になります。6で割り切れないので5残りとなり仏滅になります。4月2日は6になるから、6で割り切れるので大安になります。
たったこれだけのことなのに生活の習慣とは恐ろしい程に人々の気持ちに食い込んで生きているものです。私たちの思い込んでいる怖さです。大安、仏滅の決め方が分かり、馬鹿げていると思っていても従うほどに、大安は吉日で仏滅は凶の日だと思い続けます。これが思い込みの心理であり、それはピグマリオン効果と言われています。
心理学では「信じ込みの強さ」として「伸びるものと信じて扱った場合」と「だめだと思い込んだ場合」とでは、前者はプラスのピグマリオン効果として働き、後者の場合にはマイナスのピグマリオン効果として働くという実験データを示しています。大安は吉日だと思い込んでいる故に、祝いに連想され、仏滅は凶の日に思い込まれている故に不吉が連想されるのです。
子どもの指導には「この子は伸びる。やればできる力がある」と思い込むことで積極的ピグマリオン効果を生かすという工夫が大切です。「だめだ、だめだ、いくじがない」と口ぐせにするとマイナスのピグマリオン効果が生じかねません。
「はきだめに エンドウ豆咲き 泥地から 蓮の花が育つ 人皆に美しき種子あり 明日何が咲くか」
この詩は、安積得也さんという詩人の「明日」という作品です。安積さんは、官僚や県知事、社会評論家、大学教授などの多方面で活躍した人です。明治に生まれ、大正、昭和、平成と激動の時代を生き抜いた人です。そのような人生から生まれた詩が「明日」です。
私がこの詩に出会ったとき、特に「人皆に美しき種子あり 明日何が咲くか」の一節に感銘を受けました。「人皆に美しき種子あり」の言葉は、教員人生の拠り所となりました。
皆さんは、自分の良さや可能性について真剣に考えたことがあったでしょうか。勉強ができない、人前で上手く話せない、スポーツが苦手などと思い悩んでいることもあるのではないでしょうか。何でもできる友達を羨ましく思う時もあったことでしょう。しかし、自分自身をよく見つめてみると、自分にしかない良さが必ずあります。気付かないのは、自分の良さについて考えようとしなかったからです。
今日からは、自分の奥底に潜んでいる良さや可能性について信じてみてはどうでしょうか。同時に他の人の良さにも目を向け、取り入れようとすると自分自身がさらに豊かになり、よりよい人間関係を築くことができます。「人皆に美しき種子あり」と思い込んでの指導が教育の基本です。
教師による4つの言語活動
私たちは言葉を通じてものごとを認識し、考え、心を育んでいます。「国語に関する世論調査」(令和元年度文化庁)で、ふだんの生活の中で接している言葉から考えて、今の国語は乱れているかを尋ねたところ、結果は、「非常に乱れていると思う」を選択した人の割合が10.5%、「ある程度乱れていると思う」が55.6%で、この二つを合わせた「乱れていると思う(計)」は66.1%となっています。さらに、どのような点で乱れていると思うかを尋ねた結果、「敬語の使い方」(63.4%)、「若者の言葉」(61.3%)の割合が他に比べて高く、それぞれ6割を超えています。次いで「新語・流行語の多用」(33.3%)、「挨拶言葉」(32.2%)が3割を超える結果となりました。
学習指導要領総則には「言語能力の育成を図る」ことが協調されています。言語を使った営みが言語活動です。授業は言語という手段を使って教師と子どもたちとの間で協同的に展開されています。その意味で、授業は子どもたちと教師で営まれる言語活動そのものだとも言えます。子どもの言語活動を充実させようとするとき、子どもに焦点を当てた取り組みになりがちです。話の仕方、発表の仕方、文章の読み取りなど、いずれも子どもの言語活動が対象になっています。
しかし、これらの言語活動はいずれも教師からの直接的、間接的な影響を受けながら行われています。それは主に教師の言語活動です。このことは、単に「子ども」だけを対象に研修・研究するのではなく、併せて「教師の」言語活動の在り方についても吟味・検討することが、「子どもの言語活動」の充実につながることを意味しています。
授業中の教師の言動活動を大別すると、子どもと同様に、「話す」、「聞く」、「書く」、「読む」といった4つの活動があります。授業はこれらが相互に関連し合いながら展開されています。これらの中でも話す活動が主になります。説明や解説、発問や指示、助言などです。教師の「話す力」「話す内容」は授業の質を大きく左右します。このことは子どもの学力形成にも影響を及ぼします。
教師が発問などをしながら話しかける場面では、子どもの発言や疑問などを聴く活動が一体的に行われています。子どもの何気ないつぶやきに耳を傾け、発言内容の真意をくみ取る力が求められています。
子どもは教師の聴く姿勢を敏感に感じ取ります。教師は、重要事項や発言した内容の要点を板書します。それによって子どもは思考を促したり理解を深めたりします。「板書をみれば、授業が分かる」と言われる所以です。
子どものノートや作品に朱書きもします。書かれた内容によって子どもは自信をつけ、やる気を起こします。さらに、教師は教科書の文章を範読するなどの活動も行います。
教師の言語活動は、子どもたちにとって教室における重要な学習環境であると言えます。授業においては、教師の言語活動がひとつのモデルとしての役割を発揮しているからです。
教師の言葉遣いは、子どもの学習意欲や人格形成に大きな影響を及ぼします。教師が乱暴に板書すると、子どもたちが各文字も乱暴になると言われます。楷書で丁寧に書くこと、子どももそれを真似ます。教師の書き方、話し方は善きにつけ悪しきにつけ子どもたちに乗り移ります。子どもたちの言語活動を充実させ、言語に関する能力を育むためには、まずもって教師自身が日々の教育活動や授業において豊かな言語活動展開することが求められています。