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0015 今、教師に求められること|細井 平洲に学ぶ

今日は、私たちが今まさに直面している「第三の教育改革」について、少し立ち止まって考えてみたいと思います。

教育は、いつの時代も国家と社会の根幹をなす営みです。第一の教育改革は明治維新の時、そして第二の教育改革は戦後の混乱期、これまで日本は極めて厳しい状況の中で、大きな教育改革を断行してきました。それは、どんなに困難な時代であっても、「人づくり」こそが未来を切り拓く鍵であるという確信があったこそだと思います。

そして今、私たちは「第三の教育改革」の真っただ中にいます。平成以降、社会は大きく変化しました。グローバル化、情報化、少子高齢化、そして新型コロナウイルスによる社会の分断と不安。こうした中で、教育に求められる役割も大きく変わりました。

ご承知のようにこの改革の柱は、「生きる力」の育成です。知識を詰め込むだけではなく、自ら学び、自ら考え、判断し、行動する力を育てること。そして、子どもたち一人一人の個性を尊重し、誰もが安心して学べる環境をつくることです。

教育基本法の改正、GIGAスクール構想、探究学習やICTの活用、大学入試改革など、制度面でも大きな転換が進んでいます。しかし、制度だけでは教育は変わりません。学校現場で子どもたちと向き合う私たち教師一人ひとりの「志」と「実践」があってこそ、改革は本物になります。

孟子もうし1)は「天下の英才を教育するは三楽なり」と語りました。教育は、人生における最高の喜びであり、最も尊い営みです。上杉うえすぎ 鷹山ようざん2)細井ほそい 平洲へいしゅう3)のように、困難な時代にこそ教育に希望を託した先人たちの姿勢に、今私たちも学ぶべきではないでしょうか。

細井 平洲は、財政破綻に(ひん)する米沢藩(現在の山形県東南部置賜地方)を立て直した名君・上杉 鷹山が生涯の師として尊敬した江戸時代の教育学者です。平洲は名古屋の尾張藩、四国の西城藩、熊本の人吉藩など、いろいろな藩に招かれては講義をしていました。

その平洲の意見や講義は『嚶鳴館遺草おうめいかんいそう4)という書物にまとめられています。この書物は、幕末の吉田 松陰が「読めば読むほど力量を増す」と絶賛したほど、リーダーの生き方・考え方のエッセンスが説かれたものとして、後世に大きな影響を残しています。この『嚶鳴館遺草』の中に出てくる「2つの言葉」を紹介します。

『人を教えるうえでの心得としは、菊好きの人が菊を作るようにしてはならないもので、百姓の菜大根を作るように心得なければならない。』

この言葉は、「嚶鳴館遺草 つらつらぶみ 君の巻」に出てきます。菊好きが菊を作るようにするのではなく、百姓が大根をつくるようにしなくてはいけません。菊好きの人は、花のかたちがみごとなものだけを咲かせようと、枝をもぎとり、多くのつぼみを捨ててしまい、伸びる勢いをちぢめて、自分の好みどおりに咲かない花は、花壇に一本もないようにします。百姓の大根作りは、一本、一株も大切にして、畑の中には、上出来のものがあり、曲がったもの、大小が不揃いでも、それぞれを大事に育てて、形の良いものも悪いものも食べものとして役立てるのです。

教師は、子どもを教え育てることを職務としていますが、実は子どもからも多くのことを学んでいます。子ども一人一人は、すばらしい長所や伸びようとする芽を持っています。その長所や伸びる芽を見落とさずに的確にとらえるためには、一人一人の子どもを見つめる努力をすることです。目の前の子どもをよく知ること、この前提があって「教え育てること」が始まるのです。子どもを見つめ理解するためには、一人一人の子どもに対して声を掛け、変化に気付こうとするたゆまぬ努力をすることです。

また、教師は常に子どもと同じ世界にいなければなりません。「子どもを知る」「子どもの目の高さで指導することが必要だ」とよく言われますが、それはこのことを意味しています。しかし、このことは、単に子どもの言いなりになることではありません。教師が深い愛情を注ぎ、温かく、厳しく、子どもの心に響く指導を続けていく中でこそ、はじめて、子どもとともに歩む教師になることができるのです。

「教うるは学ぶの半ばなり」という言葉があります。その意味は、人にものを教えるためには、自分自身がよく学びよく理解していなければ教えられません。また、教えているうちに自分の知識の曖昧さがはっきりして、確認する必要が出てきます。したがって、教えることは自分もその半分を学ぶということと同じであると言う意味です。

先施せんしもうみちこれあり』

この「先施と申す道これあり」という言葉は、「嚶鳴館遺草 つらつらぶみ 臣の巻」に出てきます。藩主ではなく家臣、今でいえば管理職や中堅リーダーに語った言葉です。

「人と親しくしたいなら、まず自分が相手に親しみをもつこと。尊敬されたいなら、まず自分が相手を尊敬すること。よく思ってもらおうとするなら、まず自分から相手をよく思うとすること」すなわち、自分から働きかけていくことの大切さを、「先施」という言葉で表現したものです。特に部下や若年者、地位の低い人に対しては、自分から親しんでいくことが大事なことであると平洲は言っています。

平洲自身、「先施」を実践した人でした。大名家に招かれて講義をするようになっても、江戸両国橋のたもとに立って、道行く人に辻説法をすることをやめませんでした。米沢藩の藩校「興譲館こうじょうかん5)を造ったのちも、人々が学びにくるのを教室で待つのではなく、各地の村に出かけていき、民家や寺を借りて講義するなど、自ら進んで世の中の人びとかかわりました。そして、身分上下の分け隔てなく多くの人たちに自分の考えを語り、人びとから多くのことを学び、幅広い知識と視野を身に付けていったのです。

人がやらないこと、やりたくないことをやってみよう。人が嫌う仕事も進んでやり遂げよう。誰もが二の足を踏むような斬新な試みをしてみようという気持ちもまた、「先施の心」です。さらに平洲は、何事にも勇気をもって率先垂範することも教えています。

教師自らが心を開くとき子どもはその心に語り掛けてきます。子ども一人一人に対しかけがえのない人間としての人格を認め、公平に接するとき、教師と子どもの間に信頼関係が生まれます。こうした人間的接触の基礎は、自らが魅力的な人間教師を追求することから始まります。それには、教師自らがその未熟さに気付き、その克服に真摯に取り組むとともに、子どもにかける愛情と情熱と正義感、そして揺るぎない教育理念を堅持することが必要です。それらが備わったところに、人間性豊かな教師が誕生します。

教育は、教師と子どもとの人間的触れあいに始まりますから、教師の人間としての魅力は、子どもを大きく感化します。ですから、子どもとの豊かな人間関係を育むためにも、教師自らが日々成長を目指し、不断の研究と修養に日々努めることが何よりも大切なことです。

  1. 孟子(もうし)
    生没年:紀元前372年頃~紀元前289年頃 出身地:鄒国(現在の中国・山東省)
    本名:孟軻(もうか)、字は子輿(しよ)
    孟子(もうし)は「人は本来善である」と説いた戦国時代の思想家で、孔子の教えを受け継ぎ発展させた人物です。仁義を重んじ、武力ではなく徳による政治を理想としました。孟子は「人は善である」という性善説を基盤に、仁義による政治を理想とした思想家であり、孔子に次ぐ儒教の大きな柱となった人物です。 ↩︎
  2. 上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)
    生没年:1751年~1822年 本名:上杉治憲(はるのり)、号は鷹山
    藩:米沢藩第9代藩主(現在の山形県)
    出身:宮崎県高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれ、上杉家に養子入り
    上杉 鷹山は、江戸時代中期の米沢藩主で、破綻寸前だった藩を立て直した名君です。質素倹約を自ら実践し、農業や産業を振興して領民の生活を安定させたことで知られています。鷹山は「為せば成る」の精神で藩を救い、民を第一に考えた名君として、今もリーダーシップの手本とされる人物です。 ↩︎
  3. 細井 平洲(ほそい へいしゅう)
    生没年:1728年~1801年 出身地:尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)
    本名:紀徳民(のりとくみん)、通称は甚三郎  号:平洲、如来山人
    細井平洲(ほそい へいしゅう)は、江戸時代の儒学者で、上杉鷹山の師として知られる教育者です。庶民にも分かりやすく学問を広め、勇気や思いやりを重んじる教えを残しました。
    平洲は「勇気」「思いやり」「先に施す心」を重んじ、庶民教育を広めた江戸時代の儒学者であり、上杉鷹山を導いた師として日本の教育史に大きな足跡を残した人物です。 ↩︎
  4. 嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)
    『嚶鳴館遺草』は、江戸時代の儒学者・細井平洲の遺稿集で、教育や政治、人生の心得をまとめた書物です。弟子たちが平洲の没後に編集し、1835年(天保6年)に刊行されました。吉田松陰や西郷隆盛も愛読したと伝わる、後世に大きな影響を与えた書です。 ↩︎
  5. 興譲館(こうじょうかん)
    興譲館は、江戸時代に米沢藩で設立された藩校で、藩士やその子弟に学問を授ける教育機関でした。藩主・上杉鷹山が師の細井平洲の助言を受けて再建し、藩の改革を支える人材育成の場となりました。 ↩︎
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