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0005 今、教師に求められていること

皆さんは、教師になったその日から「教える人」としての自覚をもって、子ども・保護者・所属校の先生方の期待にこたえていく責任があります。また、「教え育てる人」としての使命感に燃え、豊かな人間性と相まって教師としての専門性を日々の教育実践の中で発揮することが期待されています。

今、教師に強く求められているものとして、「学級は人組み、人組みは人のクセ組み、人のクセ組みは人の心組み」について考えてみたい。

学級は人組 人組みは人のクセ組 人のクセ組みは人の心組み

学級は子ども(人)の集まりです。子どもの集まりはクセの集まりだと言ってよい程に多様な考えがぶつかり合います。昔の棟梁は、自戒の言葉として「塔は木組み 木組みは木のクセ組み 木のクセ組みは人組み 人組みは人の心組み 工人の非を責めず、わが身の不徳を思うべし」と教えています。学級経営もまた、同様です。「学級は人組み人組みは人のクセ組み 人のクセ組みは人の心組み」といえます。

私は時折、自分の手を眺め、五本の指と掌、そして手首のこの三者の組合せの妙になるほどと感心します。それぞれは独自の機能を持ちつつ一つ一つの動きをつくります。指を見ますと、五本がそれぞれに長、短、太、細、そして向きや動きの微妙な違いがあります。

「パア」にすると五本が大きく離れますが、しかし向きは同じ方向を向いています。指の間隔は自在に動きます。一、四になったり、一、二、三となったり、三、二になったり、二、三になったりします。

「グウ」にしてもいろいろな形が生まれます。物を握るときも、握り方でそれぞれの指の握力は違います。それでいて一つの指が傷つくとたちまちにして手の機能に異常をきたす程に連帯が強くなります。五本の指は個別に動きつつ全体として機能を果たします。どの指一本たりとも傍観者はいません。まさに組織体です。

掌は、これらの指を結びつける役をして、指の運動を自在に調整しています。そして、これらに方向づけをして自在な手の運動を様々に導くのが手首です。このように自分の手を見ていると「指」が「子ども」で、掌が担任で、手首が校長のように思えます。

「指」の「子ども」長、短、太、細と体格においても、個性においても、行動力においても十人十色と言われるほど違いがあります。仕事の早い子ども、遅い子ども、すなおな子ども、むずかしい子ども、おとなしい子ども、活発な子どもといった違いがあります。こうしたいろいろと違いを持つ子どもたちをチーム・ワークさせるのが担任の指導力です。現職の担任のなかにも、この指導力が発揮できないで苦しんでいる先生もいます。そうした学級には往々にして「陰の担任」といわれる子どもがいるものです。

担任の意志、指導、発言よりも、その子どもの発言で多くの子どもたちが動くといった存在です。その子どもは往々にして担任とは考え方を異にする場合が多いものです。この子どもを担任が学級の「ガン」とするか、学級の回転軸にするかは担任の力量がでます。

よく「クセのある人は、だましだまし使え」というが、私は「教わり教わり使え」と言いたい。この「教わり教わり」のコツが担任の人間性にかかる手腕だといえます。たとえ変人と思われるような子どもでも、心を動かされる言葉、役割、励まし、賞賛を受けた時には正気の心をのぞかせるものです。

「始まりはすべて小さい」といわれるように些細な言葉、態度、配慮の中に突破口は隠されています。これまでの体験から、学級経営に当たるものは事を処するに、困難に注目する前に、可能性を生み出す小さな突破口を見つけることに腐心することが大事だと痛感します。

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