作家の吉川 英治氏※1は、色紙を頼まれると「我以外皆我師」や「生涯一書生」とよく書いたようです。
「菊の日や、もう一度紺かすり、着てみたし」
これは、英治氏が文化勲章を受けたその日の朝、詠まれた句です。この句の意味するところは、一つには、「母上、英治は勉強した甲斐があって、ご褒美をもらいました。さあ、これが勲章です。タチバナの花をあしらったもののようです。母上、さあ・・・」と、今は亡き母への受賞の報告であったのでしょう。
そしてもう一つは、「紺かすり」を「書生」という意味にとると、それは彼自身が好んで書いた「生涯一書生」という気持ちを、晴れの日にあえて確認し、生涯をとおしての決意表明をしたものではないでしょうか。
英治氏の身近にいて、彼を心から尊敬し慕っていた扇谷 正造氏※2は「我以外皆我師」は、英治が我以外の皆、即ち外に向けた眼であるとすれば、「生涯一書生」は、内なる自分に対する決意であり、自我・心構えであったといっております。
今、教師に求められるものとして、吉川英治氏から学ぶ「生涯一書生」、「我以外皆我師」について考えてみたいと思います。
1「生涯一書生」
「今、教師に求められるもの」の1つ目は、「生涯一書生」の気構えで、教師としての研究をずっと続けて欲しいということです。英治氏が言った言葉に「40にして初めて惑う」というのがあります。人間、20代、30代はまだ人生も仕事も手伝いの段階です。それが40代になって、初めて人生や仕事の意義、難しさがわかりかけ、そこで様々に惑い始めるものだと言う意味です。
事実、英治氏が「宮本武蔵」を執筆したのは42~47歳。文壇でそれなりの地位を確保できたのが、この頃なのです。従って、20代、30代で、一人前の教師になったつもりでいるようでは、まことに滑稽と言わざるを得ないのです。
ご承知の通り、教師にとって、研究と修養は不可欠です。およそ「研究」の「研」とは、とぐ。その研ぐとは、幾回も幾回も磨いて美しい光・つやを出す、切れ味を鋭くすること。「究」とは、「穴」と、基礎数のうち最も多い「九」とをあわせたところから、物事の奥義・本質・真理を極めるということなのです。数冊の専門書を読んだり、研究授業を数回したぐらいで「研究」とはおこがましいのではないでしょうか。まさに「生涯一書生」の気持ちで、何年も何年も磨き抜いてこそ、それも40代後半から50代になってから初めて教育の何たるか、その奥深いところのものがようやく理解されてくるものなのです。
2「我以外皆我師」
「今、教師に求められるもの」の2つ目は、「我以外皆我師」の心で修養に励んで欲しい、ということです。教育は、児童・生徒の知識を増やしたり、技能を身に付けさせたり、人間性を養ったり、児童・生徒が持つ能力を引き出そうとすることです。理論も指導技術も大事です。
しかし、最後の決め手は、その教師の人間性そのものだということは、多くの先輩が指摘するところです。まず自ら徳性を磨き、人格を高める、そうした努力を怠る者は、つまり「修養」に心を致さぬ者は、教師失格と言っても過言ではないと思うのです。
教師として、精神を練磨したい、高度の人格を形成したい、そういう意志・意欲と、そのために何からも学び取ろうとする慎ましさ・謙虚さがあれば、「我以外皆我師」であることができることでしょう。
人間修養の上で、吉川英治氏の言葉は、実に貴重な指針になると考えます。教師が教育の専門書を熟読したり、教育について仲間と熱心に論議する、これは、その道の専門家としては当然のことですが、それは、どちらかと言えば「研究」の分野と言っていいでしょう。しかし、「修養」の面から言えば、教育以外の、多義にわたる書物を「我師」として読むよう心掛けてほしいものです。
「研究」の深さと「修養」の広さが相俟ったとき、望ましき教師像が形成されて行くように思います。
※1 吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年・明治25年 8月11日 – 1962年・昭和37年9月7日)は、日本の小説家。本名:吉川 英次(よしかわ ひでつぐ)。現在の神奈川県横浜市中区出身。文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。
※2 扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 – 1992年4月10日)は日本の文筆家、編集者、昭和時代のジャーナリスト、評論家。”週刊誌の鬼”の綽名で知られた。宮城県遠田郡涌谷町出身。東京帝大卒。著作に「えんぴつ軍記」「現代文の書き方」など。 朝日新聞社会部記者などをへて昭和22年「週刊朝日」デスク、26年編集長。週刊誌ジャーナリズムに新境地をひらいたとして、28年菊池寛賞。のち学芸部長、論説委員。
